記念すべき1記事目ということで、今日は自由奔放に生きてきた私まーくんの仕事歴史を一挙に公開しちゃいます!
世界的に見てもかなりヘンテコで面白い仕事の歴史だと思いますよ!ぜひ最後まで読んでくださいね!
【目次】タップして飛べるよ
- 1 バイト連続クビ事件!就業態度が悪いクソガキまーくん誕生
- 2 寿司屋を内定もらうも…気がのらなくてフリーターからスタート
- 3 沖縄移住を決意も2度の断念!沖縄レストランの料理人で人生修行
- 4 人間関係は難しい…。料理長とケンカをして半年間のホームレス生活
- 5 ビールの注ぎ方も知らない!?居酒屋の雇われ店長はじめました
- 6 居酒屋の雇われ店長から委託で経営をはじめました
- 7 自分の可能性を知りたくて…。30歳で歌舞伎町の昼ホスト!
- 8 仕事内容は全然分からないのに理念だけで惹かれて「経営コンサルタント」はじめました
- 9 借金1000万円を返済するために、3年間日替わりで仕事をしまくる!
- 10 コミュニケーションと言葉の大切を知り「WEBライター」をはじめました
- 11 ひきこもり・不登校・障がい者の方たちの個性が活きる世界をつくるための活動
- 12 最後に…
バイト連続クビ事件!就業態度が悪いクソガキまーくん誕生
宮崎県生まれ神奈川の横浜育ちの私まーくんの、人生で初めての仕事は、青い看板の某コンビニエンスストア!
いわゆる反抗期ということもあって、マジメに働くことができない少年でした。仕事中にPHS(今でいう携帯電話)をいじったり、お客さんと揉めたり、と就業態度が悪いとのことで3か月ほどでクビになりました。
その後にやったラーメン屋さんは、採用になったのに目つきが悪いと1か月でクビ。
デリバリーの仕事もケンカしてクビ。
引越し屋さんもケンカしてクビ。
- 人から指図される事を嫌い
- 口下手で人の話しを聞けない
- コミュニケーションが苦手
- 気に入らないことがあればすぐに態度に出る。
- ごめんなさいが言えない。
- 終いには逆ギレ
そんなわけで店長や社長と度々ケンカをしたもので仕事が続かなかった。
その後は、イタリア人もびっくりの安くてうまいドリアを出す某ファミレスで2年続けました。
寿司屋を内定もらうも…気がのらなくてフリーターからスタート
口べたでコミュニケーションが苦手な高校生の頃の「バイト連続クビ事件」もあり人間関係に疲弊していた私は高校を卒業したら何をしようか考えました。
- 料理を作るのは好き
- あまり人と関わらない仕事
と言った理由で、料理の仕事を探す…
そこで内定をもらったのが東京のお寿司屋さん。
仕事が決まったー!と嬉しい気持ちは、一瞬で不安な気持ちに包まれた。
それは
そうなんです。職人さんって下積みが長いんです。
皿洗いだけで1年以上とかもざらにあります。寿司を握るのに数年もかかる…。
料理人で一生やっていく覚悟は決まってないし、まだまだ世の中を知らない。世界にどんな仕事があるかも分からないで、一生添い遂げる契約を交わせられない!ということで辞退をした。
そこでひとまずは、フリーターをすることになったのです。
沖縄移住を決意も2度の断念!沖縄レストランの料理人で人生修行
母の家系が沖縄ということもあり沖縄に興味があり、あることがきっかけで沖縄移住を決意することになる。
小学生6年生の頃に行った沖縄の家族旅行。そこでの海の綺麗さに衝撃を受けて、ビーチ越しに見る夕日に「俺はここに住むから待っとけよ沖縄!」と移住をする約束をした。
そこから月日が経ち21歳のまーくん。まだフリーターとして某バーミヤンで働いてた私は貯金もなく沖縄に向かった。
沖縄移住の初仕事はホテルのシェフ見習い。
そこで絶望を感じる事になった…。
- 時給600円
- 毎日のサービス残業
- 近くのコンビニまで歩いて30分。
- 車もない
そんな環境で生きていくのは厳しい。
と貯金を貯めるために神奈川に戻った。
神奈川に戻った私は某バーミヤンで働きに働いて100万円の貯金を貯めて2度目の沖縄へ!
仕事はサトウキビ畑の真ん中にあるロケーション抜群のレストラン。
車も買ったし
毎日きれいな海もある
住んでる寮からコンビニも近い
さーここからワクワクの南国ライフが始まる♪
そんな理想はすぐに崩れることになった…。
人間関係は難しい…。料理長とケンカをして半年間のホームレス生活
調子にのっていた当時の私は人間関係がべらぼうに下手くそであった。
- 謙虚さゼロ
- 人の言うことを聞かない
- 独自のやり方を貫く自由人
- 人の話しを聞けない
そんな若造の私はとにかく人間関係に苦しんだ。
コミュニケーションもろくにとれない私は1年経った頃、料理長と大喧嘩をして辞める事になった…
その時の給料は1か月フルで働いて手取り8万円。100万円あった貯金も車を買ってしまったために残金は2万円ほど…
さらには
- 住んでいた寮から出なければいけない…
- 帰る場所がない
- お金もない
- 友達もいない
ここからホームレス生活が始まったのだ。
ビールの注ぎ方も知らない!?居酒屋の雇われ店長はじめました
なんとか半年間の沖縄ホームレス生活を終えた私は、全財産13円で神奈川に戻ってきた。そう意地を張るのをやめて実家に帰ったのだ。
その後はダイニングレストランで和食を2年ほど学び、料理も一通りできるようになったので新しい仕事を探すことにした。
あれだけ人間が嫌いで「人づきあいなんてクソくらえ!」と思ってた私は、ホームレスの経験や、いろんな人との関わりで人間が大好きになっていたのだ。
「人と関わる仕事をしたい!」そんな気持ち満々で求人雑誌を見ていると
「オープニングスタッフ募集」
「店長候補募集」
の文字が目に止まった。
すぐに連絡をいれて面接。からの採用。とんとん拍子で決まった。
とはいえ、
- 接客分からない
- ビールを注ぐこともできない
- 集まったアルバイトは未経験者ばかり!
駅から離れた人通りのない裏道にある知名度のないお店を0からスタート。
居酒屋の雇われ店長から委託で経営をはじめました
探り探りでスタートした居酒屋店長も3年が経った頃。常連さんも増えてきたが、売上・利益が思うほど伸びない。
そこで社長から閉店の話しを持ち出された。
お客さん0から始めた居酒屋。
キャッチやチラシ配りをして、お客さんに喜んでもらおうと全力を尽くしてきたこの3年間。
「閉店なんて嫌だ!」
その思いを社長にぶつけた。
すると
「だったら委託で経営をする?」と提案された。
委託費を毎月納めれば、あとは好きにやっていいとのことだ。
私は即決でその提案にのっかった。
そこからさらに3年。広告もSNSも一切やることなく、リピートや口コミで人が集まる人気店となっていった。
自分の可能性を知りたくて…。30歳で歌舞伎町の昼ホスト!
居酒屋の店長から始まった委託経営はあっという間に6年が経った。
売り上げは悪くなかったのだが、物件の更新時期ということもありお店は閉店をすることにした。
「次は自分のお店を作ろう!」
と、思ったのはいいが、お金がない…。
それどころか人件費の使いすぎや、高額セミナーやイベント・交流会などに参加したりと借金だけが残った。
いろいろとチャレンジしたいけど、お金を稼がなければいけない…。
そんなこともあって、東京にある肉バルの店長をさせてもらう機会ができた。
そんなある日、ふと気になることができた。
「俺は一人の人間としてどこまで人から愛される事ができるのか!?」
居酒屋をやっていた時は、常連さんがたくさんついてきたが、そこには「料理」があったため完全に自分のファンになっていたわけではない。
「自分は一人の人間として、どこまで人に愛されるのだろう? 」
と気になったのだ。
そこで思いついたのが、私が昔から大大大大嫌いであったホストの世界だ。
ホストといったらやっぱり歌舞伎町だろ!?
ということで、30歳でも歓迎してくれる歌舞伎町のホストクラブを見つけて人生で初めてのホスト体験入店をしてそのままホストデビューを果たした。
ここから睡眠時間を極限に削った、肉バル店長とホストの掛け持ち生活が始まったのだ。
仕事内容は全然分からないのに理念だけで惹かれて「経営コンサルタント」はじめました
飲食業に興味がなくなってきた頃、居酒屋の頃からのお客さんに経営コンサルタント会社の社長を紹介してもらった。
経営コンサルタント??
って何をするか分からないし、なんか胡散臭いイメージ!
と怪しみながらも社長にお会いして話してみると、あるワードが頭を離れなくなる。
それは…
会社理念の「私たちはすべての人が自分らしく生きる社会を創造します」
20代の頃に決めた私の「自分理念」がまさに「自分らしく生きる」であったため、びびっときた。
仕事内容は全然分からないが、一瞬のトキメキで会社に入ることにした。
借金1000万円を返済するために、3年間日替わりで仕事をしまくる!
居酒屋の頃に少しづつ増えた借金は、さらに事業の失敗や投資詐欺などで1000万以上に膨れ上がっていた。
これはまずい!と借金返済に集中することにした。
3年間は返済期間としてガムシャラに働き、支援金や補助金なども調べて2023年には残り200万円までになった。
何が本業で、副業なのか分からないくらいに、すき間時間は何かの仕事をしていた。
その期間は友達や家族と会う時間もすべて削りひたすらお金になることをしたのだ。
怒涛の3年間で経験した仕事は
- レンタル彼氏
- 治験バイト
- Amazon配達員
- フードデリバリー(出前館)
- せどり
- 相談員
- 心理カウンセラー
- 清掃員
- 電気工事
- 営業
- WEBライター(恋愛・アダルト)
- 間借り飲食店2店舗運営(WAKEARI・話しBAR)
- 交流会運営
- 代行業(観客代行・結婚式代行)
- エキストラ(対談動画出演など)
- 覆面調査員
- 飲食店(キッチン・接客)
- イベント運営
と、まだまだ書けきれないほどに経験した。
コミュニケーションと言葉の大切を知り「WEBライター」をはじめました
大の人嫌い
べらぼうに口下手
人の話しが聞けない
コミュニケーション障がいだった私は、30歳を過ぎてからあることに気づいた。
それは
ってこと。
小さい頃から世界を平和にすると決めて生きてきたが、「言葉」と「思いやりのあるコミュニケーション」があれば世界は簡単に平和になるのではないかと気づいてしまったのだ。
そこから、言葉を扱う仕事のWEBライターを本業とすることにした。
ひきこもり・不登校・障がい者の方たちの個性が活きる世界をつくるための活動
ここからは私の未来の話しです。
私は今「ひきこもり・不登校・障がい者」といった、社会に居づらさを感じている人たちがもっとイキイキと自分らしい人生を歩んでいけるような世界をつくろうとしています。
人それぞれの個性を尊重できるようになれば、イジメも差別も起きないし、もっと自分を表現しやすくなるはず。
だけど…すべての人を変える事は難しい…
であれば、
自分で新しい世界を創ればいいじゃねーか!?
その第一歩として計画しているのが
「人と違うを育てる学校」
とはいえ、資金も必要だし、やることが山積みではあるが絶対にやってやる!それが私です。
最後に…
居酒屋の委託経営で始まった個人事業主はかれこれ10年以上経ちます。
そこで感じたことは
「仕事は1つだと不安定」
居酒屋もWEBライターも”廃業”を経験をして、仕事が1つだけだと不安を感じるようになりました。主軸として1本仕事をもつことは大事だと思いますが、保険をかけておくことは重要だなと感じたわけです。
それともう一つ伝えたい事は
「苦手な仕事もやってみると考え方変わるかもよ!?」
私が小学生の頃は、
音読もできなくて、
伝えたい言葉が出てこなくて
言葉やコミュニケーションに対するコンプレックスがひどかった。
それでも、
- 毎日毎日音読の練習をしたり
- 本を読んだり
- 漢字の勉強をしたり
- 人と話す練習をしたり
した結果、苦手な仕事が今では大大大大好きになっていたんです。
これからテクノロジーの発達で現在の仕事の49%がなくなるとも言われています。
人によっては「私の仕事がなくなる!」と悲観的に考えるかもしれない。
でもこのマイナスに思える事も
「AIが発達をしてくれるお陰で人間にしかできないことに集中できる!」
という前向きな考えを持てる人だけが生き残れるような時代になっていきます。
時代は変わる。
私たちが変わらなくても、変わっていくのが時代です。
これから明るい未来にしていくためにも一緒に変わっていきましょうね♪
ではでは!最後までお読みいただきありがとうございました。
記念すべき1記事目でした!めでたしめでたし。
これから定期的に更新して未来が良くなる仕事の有益な情報をアップしていきますので、ブックマークやホーム画面保存お願いします。
・・・言葉が苦手な言葉屋まーくんの活動・・・
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■引きこもり大脱出ブログ(引きこもり向け自立支援ブログ)
■社会人0年生のお仕事図鑑(脱引きこもり!の仕事ブログ)
https://ma-sigotozukan.com
■Instagramやってます★
■まーくんに仕事の依頼!ありがとうございます!嬉しいです!北海道から沖縄、離島…どこでも行きます!
レンタルまーくんもやってるぜ!デートや、カフェで相談、ラーメン屋同行、お話相手、お好きなようにまーくん利用ください。日本全国周ってます♪言葉屋業(文章書き代行、営業代行…)から雑用(そうじ、家事代行…)まで、なんでもやらせていただきます!料金表にのってないのでご相談ください。
https://datsu-hikikomori.net/ma-price/
人はみんな違って良い♪
学校に行くと、みんなが同じ答え。みんなと足並みそろえる。
それって生きづらくないか??
だってみんな違うんだぜ?
もっと、
人と違うことで「いいね」されて
いじめがなくて
自分らしさで輝く人たちがあふれる世界。
つくりたい!
言葉が苦手だったおかげで、言葉と向き合えた。
言葉が苦手だったおかげで、言葉の大切さに気づけた。
言葉で「生きづらい」を失くしたい。もっと自由に。もっと自分らしく。否定のない世界へ